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文明の行方

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2017年8月

2017年8月26日 (土)

なにを撮ったらよいか

写真の探索像

なにを撮ったらよいか、悩むときには原点に帰るに限る。そこで、あらためて外観の知覚について考えてみよう。

 外界の風景は、色も形もないエネルギーの強弱の形で目に入る。

 光受容器である網膜上に、エネルギー分布の強弱で外界の地図を作る。網膜には色(三原色)を感知する錐状体と明暗を感知する柱状体があるが、この段階では色も形もない。

 

その後、大脳の新皮質視覚野に送られ、ここで初めて色・形、つまり、風景を知覚し、さらに連合野で過去(進化や伝統、個人の経験などの原体験)との比較などをして知覚像の全体像が出来上がる。

 この全体像は、いわゆる「内なる自然」「内なる神」として、保存される。

 (したがって、経験の内容、感性、能力によって個人差がある)

 

その後、人間が外界に何らかの働きかけをしようとすると、「内なる自然」を背景に、何をしたいか、何を撮りたいかなどの作用像が探索像として形作られる。

 探索像は進化や経験を伴う知覚像を下敷きに造られるので、DNAや好み感性の後押しで探索が行われることになる。したがって、どんな写真を撮りたいかといった探索の内容は個人によって様々である。

 また、探索像は最近接した明瞭な像もあるし、原風景のように大部分曖昧なぼんやりした像もある。ときには見えないものもあり得る。まず、そこのところを意識して撮る必要がある。

 さて、大脳新皮質の知覚野には視覚以外の感覚も共存する。五感は環境と結びついて進化しており、たとえば聴覚・音の世界も環境と結びついているので、鐘や風鈴の写真で音を可視化することも出来る。

 嗅覚も香りのある花などで可視化することは出来ようし、ある種の味覚、たとえば甘いものなどは熟した果実の赤い色と結びついている。

 さらに、五感以外の感覚も環境と経験とが結びついている限り可視化も不可能ではない。

 伝説の世界の幽霊、妖怪、もののけ、なども文学やある種の生き物を介して可視化することが出来よう。

 また、やすらぐ風景,いやされる風景、懐かしい、好ましい風景などの感情も,特定の風景・環境と結びついていれば見える化は可能でなかろうか。

 こう考えると、人類の原風景や民族に共有された原風景はもちろん、さらに複雑な感情を伴う小説・俳句・童謡などの見える化不可能ではなく、すでに、林義勝先生の多くの作品に表現されているように思う。

 「内なる自然」の上に、さまざまな背景を積み重ね、いいと感じる写真を撮ることが大切、というのが当たり前かもしれないが結論かもしれない。

ふるさとの原風景を求めて

ふるさとの原風景を求めて    

  品田 穣

 

 

このところ私は写真にはまっている。何十年も前から天然記念物担当の調査官として全国の僻地を回ったときからカメラは常に私と行動を共にしていた。

 復帰前の米軍統治下の小笠原や沖縄や、東西分断時のドイツなど仕事上ずいぶん写真を撮った気がする。動物写真の草分けの田中光常さんや新聞社のプロのカメラマンと同行したことも少なくない。

 しかし、そんな機会も,ただ単にそこにある外観を出来るだけそのまま綺麗に撮る以外のことは考えていなかった。

 ところが、最近、あるプロの写真家の一言が、写真に対する私の考えを根底から変えることになった。

 それは、林義勝という竜伝説や伝統に造詣の深い高名なプロのカメラマンの

 「写真とは客観ではなく主観が知覚したものの表現である」という一言であった。

 外観に忠実に撮ることが写真だと思っていた私には衝撃的な見方であった。

 「写真は外観ではなく知覚されたものの表現」と言う指摘は、これまで、人類の原風景はどんなものだろうと何十年も探求してきた私にとって、「ああそうだったのか」と悟らされる一言でもあった。

 数年前「人類の原風景を探る」という本を東海大学出版会から上梓した際、表紙にどんな写真を使うか悩んでいたとき、大学のデザイナーが選んだのは、今のサバンナの美しい風景と、それとは逆の夕闇に溶け込んだような、ちょっと現実にはあり得ない暗い荒い風景の二枚だった。

 私は、人類の原風景は、人類の祖先が見た風景が今に伝わっているに違いないと考え、後者の荒い風景を選んだが、あらためて、人類や民族の原風景は具体的にどんな風景かが宿題になっていた。

 原風景がドイツで買った解像度の高い高級カメラが写した、詳細な写真であるはずがないことはわかっていたが、さりとて具体的にどんなものかとなると皆目見当もつかなかった。

 

 

そこへ、林義勝先生の「写真は外界ではなく知覚された風景の表現」という一言で目が覚めた。

そう言われて生物学者のユクスキュルの「生物から見た世界」(思索社)に出てくる「知覚標識」があらためて甦った。

 客観的・物理的な外観と主体の知覚像が異なることは「生物から見た世界」を見るとよくわかる。

 人間と同じ外界に囲まれているのに、ダニが見た(知覚した)世界と、昆虫や鳥や人間が見た世界は全く違っている。

 ダニにとっての外界は明るいか暗いかしかない世界らしい。花も木もない。虫を餌にする鳥は動く虫しか知覚できない。保護色に紛れて姿すら認識できないようだ。

 人間の場合も、あるのに見ていないことは少なくない。

 毎日見ている通勤途中の風景の中に、突然ビルが完成して、かつてそこに何があったのか分からないことがある。毎日目に入っていた風景なのに、何があるか見ていなかったわけである。忘れたにしては早すぎる。

 つまり、見えていたのに見ていなかったことになる。もちろん、関心を持って見ていた(知覚標識)駅やパン屋さん、スーパー等は見落とすことはない。

 そもそも、われわれは物理的に見えるものすべてを見ているわけではない。一瞬の間に関心を持って見ているものは見ているが、それ以外は見えてはいてもほとんど見ていない。

 車を運転する時もアイカメラによる視点は、他の車や歩行者、信号などは見ているが、それ以外はぼんやり視界に入っているに過ぎないことを示している。

 このことは、目の受容器である網膜の構造に由来している。網膜は黄斑部に三原色を感知する錐状体が集中していて、そこを外れると分布がまばらになりぼんやりとしか見えない。(周辺に分布する柱状体は,色でなく明暗を感知する。白黒の世界)

 受容器である網膜上の情報は、神経細胞によって大脳の視覚野第四層に送られて色や形を知覚し、さらに視覚野の第五層・第六層に送られ、そこで、過去の経験などと統合されて「知覚」される。

 このように、主体に知覚された風景は、外界の物理的、客観的な姿とは異なった風景である。

 ふるさとの風景を思い出そうとしても、忘れられない赤とんぼやホタル、道祖神、屋敷林、農家の屋根といった鮮明に覚えている風物がある一方で、周囲の大半の風景はぼんやりとしか思い出せない。

 どうやら、私にとっての「ふるさとの原風景」は、はっきりとした「知覚標識」と、ぼんやりとした周囲の風景(環境世界)で構成されているらしい。

 林義勝先生の言う「写真は外観ではなく、人間に知覚されたもの」をどう具体的に表現したらよいか、知覚標識とその他の外観をどう区別して表現するか、その模索が続いている。

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