無料ブログはココログ

文明の行方

  • 00000149_039
    パパラギ

自然写真

  • 朝寒のミンミンゼミ
    人間の力を超えた存在の写真を目指して

« 私の俳句観 1 | トップページ | なにを撮ったらよいか »

2017年8月26日 (土)

ふるさとの原風景を求めて

ふるさとの原風景を求めて    

  品田 穣

 

 

このところ私は写真にはまっている。何十年も前から天然記念物担当の調査官として全国の僻地を回ったときからカメラは常に私と行動を共にしていた。

 復帰前の米軍統治下の小笠原や沖縄や、東西分断時のドイツなど仕事上ずいぶん写真を撮った気がする。動物写真の草分けの田中光常さんや新聞社のプロのカメラマンと同行したことも少なくない。

 しかし、そんな機会も,ただ単にそこにある外観を出来るだけそのまま綺麗に撮る以外のことは考えていなかった。

 ところが、最近、あるプロの写真家の一言が、写真に対する私の考えを根底から変えることになった。

 それは、林義勝という竜伝説や伝統に造詣の深い高名なプロのカメラマンの

 「写真とは客観ではなく主観が知覚したものの表現である」という一言であった。

 外観に忠実に撮ることが写真だと思っていた私には衝撃的な見方であった。

 「写真は外観ではなく知覚されたものの表現」と言う指摘は、これまで、人類の原風景はどんなものだろうと何十年も探求してきた私にとって、「ああそうだったのか」と悟らされる一言でもあった。

 数年前「人類の原風景を探る」という本を東海大学出版会から上梓した際、表紙にどんな写真を使うか悩んでいたとき、大学のデザイナーが選んだのは、今のサバンナの美しい風景と、それとは逆の夕闇に溶け込んだような、ちょっと現実にはあり得ない暗い荒い風景の二枚だった。

 私は、人類の原風景は、人類の祖先が見た風景が今に伝わっているに違いないと考え、後者の荒い風景を選んだが、あらためて、人類や民族の原風景は具体的にどんな風景かが宿題になっていた。

 原風景がドイツで買った解像度の高い高級カメラが写した、詳細な写真であるはずがないことはわかっていたが、さりとて具体的にどんなものかとなると皆目見当もつかなかった。

 

 

そこへ、林義勝先生の「写真は外界ではなく知覚された風景の表現」という一言で目が覚めた。

そう言われて生物学者のユクスキュルの「生物から見た世界」(思索社)に出てくる「知覚標識」があらためて甦った。

 客観的・物理的な外観と主体の知覚像が異なることは「生物から見た世界」を見るとよくわかる。

 人間と同じ外界に囲まれているのに、ダニが見た(知覚した)世界と、昆虫や鳥や人間が見た世界は全く違っている。

 ダニにとっての外界は明るいか暗いかしかない世界らしい。花も木もない。虫を餌にする鳥は動く虫しか知覚できない。保護色に紛れて姿すら認識できないようだ。

 人間の場合も、あるのに見ていないことは少なくない。

 毎日見ている通勤途中の風景の中に、突然ビルが完成して、かつてそこに何があったのか分からないことがある。毎日目に入っていた風景なのに、何があるか見ていなかったわけである。忘れたにしては早すぎる。

 つまり、見えていたのに見ていなかったことになる。もちろん、関心を持って見ていた(知覚標識)駅やパン屋さん、スーパー等は見落とすことはない。

 そもそも、われわれは物理的に見えるものすべてを見ているわけではない。一瞬の間に関心を持って見ているものは見ているが、それ以外は見えてはいてもほとんど見ていない。

 車を運転する時もアイカメラによる視点は、他の車や歩行者、信号などは見ているが、それ以外はぼんやり視界に入っているに過ぎないことを示している。

 このことは、目の受容器である網膜の構造に由来している。網膜は黄斑部に三原色を感知する錐状体が集中していて、そこを外れると分布がまばらになりぼんやりとしか見えない。(周辺に分布する柱状体は,色でなく明暗を感知する。白黒の世界)

 受容器である網膜上の情報は、神経細胞によって大脳の視覚野第四層に送られて色や形を知覚し、さらに視覚野の第五層・第六層に送られ、そこで、過去の経験などと統合されて「知覚」される。

 このように、主体に知覚された風景は、外界の物理的、客観的な姿とは異なった風景である。

 ふるさとの風景を思い出そうとしても、忘れられない赤とんぼやホタル、道祖神、屋敷林、農家の屋根といった鮮明に覚えている風物がある一方で、周囲の大半の風景はぼんやりとしか思い出せない。

 どうやら、私にとっての「ふるさとの原風景」は、はっきりとした「知覚標識」と、ぼんやりとした周囲の風景(環境世界)で構成されているらしい。

 林義勝先生の言う「写真は外観ではなく、人間に知覚されたもの」をどう具体的に表現したらよいか、知覚標識とその他の外観をどう区別して表現するか、その模索が続いている。

« 私の俳句観 1 | トップページ | なにを撮ったらよいか »

写真・俳句」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 私の俳句観 1 | トップページ | なにを撮ったらよいか »